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浴漕は中で二つに仕切られていた。それは一方が村の人の共同湯に、一方がこの温泉の旅館の客がはいりに来る客湯になっていたためで、村の人達の湯が広く何十人もはいれるのに反して、客湯はごく狭くそのかわり白いタイルが張ってあったりした。村の人達の湯にはまた溪ぎわへ出る拱門型に刳くった出口がその厚い壁の横側にあいていて、湯に漬って眺めていると、そのアーチ型の空間を眼の高さにたかまって白い瀬のたぎりが見え、溪ぎわから差し出ている楓かえでの枝が見え、ときには弾丸のように擦過して行く川烏かわうの姿が見えた。
勿論、その時代には温泉宿にかぎらず、すべての宿屋が大抵古風なお粗末なもので、今日の下宿屋と大差なきものが多かったのであるが、その土地一流の温泉宿として世間にその名を知られている家でも、次の間つきの座敷を持っているのは極めて少い。そんな座敷があったとしても、それは僅わずかに二間か三間で、特別の客を入れる用心に過ぎず、普通はみな八畳か六畳か四畳半の一室で、甚だしきは三畳などという狭い部屋もある。
我々はそれから「き」の字橋まで口をきかずに歩いて行ゆきました。……
「ハッパもいゝが、近頃は土方がいたづらをするとか云うて、女の子が下の方を恐はがつて通らんていふぢやないかね」
と、房一はもう一度感心した。
かういふ目には、あの鬼倉との一件の後でも、多少会つていた。だが、その時も今も、房一は同じやうに何か尻ごみするやうな当惑に近い表情を浮かべ、なるべくその話から逃げるやうにしていた。その表情は、盛子の妊娠のときや道平の病気に際して現れたものに似て、何となく滑稽なところさへあつた。鬼倉の一件も、営林署の消防演習のことも、開業のはじめに彼が空想していたところのもの、あの町の人の心をしつかりと捉み、信頼させるといつた野心の点から云へば、巧まずしてその効果を果すものだと見做していゝ筈であつた。事実、さういふ様子は町の人の態度にはつきりと現れていた。あんなに大勢の人の目前で行はれたことであるのにかゝはらず、出張所で最初に口火を切つたのが神原喜作ではなくて房一であり、解決したのも房一だといふ風評さへ立つていたのである。無責任でもある代りに、どこか一脈の根柢あるかういふ風評は、今何となく房一を漠然と押し立てる方に働いている観があつた。ところが、どういふものか、房一はそれを避ける様子を示したばかりでなく、一種嫌悪の面持を見せた。
「はン」
「いやネ、誰か赤山のことに精くわしい者はいないかつてんで、わたしの所へ来たのですね。まあ、案内するにはしたが、あの連中と来たら地の底でも見えるやうなことを云ふんで呆れたところですよ」
房一も人に揉まれて立つていたが、構内の落ちつきを見ると、近よつて事情を確かめようとした。すると、その時、彼よりも先きに誰かがやはりさうしようと思つたらしく、構内へ上る土手に足をかけようとしたはずみに、そこは溝だつたと見え、たちまち安定を失つて水の中に落ちた。男はすぐに土手に匍ひ上つたものの、下半身づぶ濡れになつたらしく、しきりと裾をしぼつているやうだつたが、又滑つて尻餅をつき、土手にへばりついたのが、ちやうどその上方に立つた高張りの明りでぼんやりと、だが、蛙か何かがばたついているやうに見えた。その時、高張りの下で木柵に凭もたれて様子を眺めていた長身らしい人影が、突然大きな笑ひ声を立てた。すると、火事騒ぎで興奮していたらしい下の男は、土手の途中に立ち上ると、
その頃、紙衣かみこの神主達の行列は町からかなりはなれた河向ふの路をぞろぞろ歩いていた。
それはまるで、よほど深く知り合つた間柄の、何年か見ずにいた者同士だけがやるやうな並外れて馴れ馴れしい様子だつた。
「大きいやつだねえ」
たしかに、一年余りといふ年月は経過した。それは暦の上でもはつきり現れているし、房一の身辺でも紛まがふことなく通過した。たしかにいろんなことが、予期したことも予期しないことも起つた。それにもかゝはらず、そこには何か了解しがたいものがあり、一口に一年といつてしまふにはあまりにはみ出たものがうようよして感じられるのであつた。これにくらべれば、彼が開業のはじめに空想したさまざまのことは、あの医師高間房一としてこの町にしつかりと根を生やすといふことは、どんなに小さくどんなに単純なものだつたらう。いや、彼の空想は着々として実現していた。何故なら、どこにも医師高間房一としての失敗は認められなかつたから。それでもなほ、彼の前もつて考へたことは、起つたことにくらべればとるにも足りないものだつた、といふ感じを抱かざるを得なかつた。そこには何か大きなものが、大きくつて親しい、落ちついたものが現れているやうに思はれた。
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